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拾った帽子がハンカチに
1999年7月27日
 4〜5年前のシャクナゲの季節も過ぎた頃と思うが、大分県南部の酒呑童子山に出かけた。酒呑童子山は稜線続きの小鈴山とともに5月の初旬には見事なシャクナゲが咲き誇る山で、登山口までのアクセスもよく、登山口から頂上まで40分足らずで到達するので家族向きに最適のハイキングコースである。
 下山途中、道端に帽子が落ちていた。私は拾ったものはなるべく有効に活用する考えなので早速かぶってみたが小さすぎた。よく見ると学校名と名前が書いてあった。帰ってから、熊本県万能地図と電話帳を手がかりに調べると、容易に住所が判明した。入らない帽子を保管しておくのも芸がないから、ちょっとしたメモ書きを添えて茶封筒で発送しておいた。
 それから数日後、きれいなハンカチをそえた礼状を頂いた。一目で小学校の低学年と分かる鉛筆書きのたどたどしいひらがなの礼状に感動し、柄にもなく「ものを大切にしようとか、自然を愛しようとか」いうせりふの返事をしたためた。結局、200円足らずの切手代が1000円相当のハンカチとなり、私は大いにもうかっちゃったわけである。
 その子は今では中学入学も間近かで、山や自然に興味を持つ少年に成長しているはずである。今でも、山道で小学校高学年の子供を見かけると、「もしかしてあの時の帽子の落とし主では」と想像したくなる。
 ちなみに、それ以後、山で帽子を拾ったことはなく、ハンカチを得したこともない。


タガログ語で道を尋ねられタガログ語で教えたこと
1999年7月28日
 タガログ語はフィリピンの公用語である。10年程前、地質調査の仕事でしばしばフィリピンに出稼ぎにいっていた。タガログ語は理解できないが、現地人の同僚と楽しく接していると、日常のあいさつや100語程度の単語は憶えるものである。休日には、町でビールを飲んだり果物を買ったりするのが楽しみであった。ある日、マニラの市街をぶらついていると突然フィリピン人の若者に声をかけられた。「サアン、○○オスピタル?」、日本語に訳すと「○○病院はどこですか?」であり、私はそのタガログ語を理解できたし、○○病院の場所も知っていた。さらに、カリワ(左)カナン(右)の単語も知っていた。そこで、次の曲がり角を指さしながら「カナン・イト」と教えた(イトは英語のthisやitに、日本語の「それ」に相当するほか、接尾語として頻繁に使われる単語である)。若者は、現地人特有のちょっと顎をしゃくり上げたようなしぐさで微笑み「サラマット(ありがとう)」と云い歩き始めた。私は、彼の行き先を目で追いかけたが、彼が次の角を右に曲がるのを確認して、安心し、何となくいい気分になった。
 私は、強い日射しに焼けてかなり色黒となっていたし、服装も現地で購入したTシャツを身につけていた。それにしても、完全にフィリピン人にみえたのであろう。道を尋ねた若者は地方から友人を見舞いにマニラに出てきたのかも知れないが、たまたま雑踏の中で日本人に声ををかけたとは夢にも思っていないはずである。
 熊本でも、最近外人の姿をよく見かけるようになったが、外人を日本人と信じて道を尋ねる日本人はまずいないであろう。当時、外見だけは現地人になりきっていたフィリピン滞在中の自分を思い出すと楽しくなる。


韓国人の青年の道案内をしたこと
1999年7月29日
 4〜5年前のこと。母校熊本高校34年卒の新年宴会に参加し「白山通り魚伊智」を出たところ、電車通りで、東洋人の若者に英語で話しかけられた。「Where is Suizenji Youth Hostel?」、英語が不得意な私にもこの程度の会話は理解できたが、ユースホステルの場所は知らなかった。ガソリンスタンドやコンビニを尋ねながら30分程かかってたどり着いた「ユースホステル」は「魚伊智」と目と鼻の先であった。宴会の後で酒が入っていたこともあり、あちこち連れ回して、彼にはすまないことをしたと思った。
 30分程歩き回った間に若者と色々話をした。若者は韓国人であって日本語は分からないし、こちらは韓国語は分からないので、必然的に他国語の英語を使わざるを得ない。しかも、両者とも英語はあまり得意ではないので、数少ない単語を駆使して会話をする。それでも、彼の日本訪問の目的や今後の行き先・今日初めて日本の土を踏んだことなどを理解することができた。こんな経験をすると言語とはつくづく不思議なものと痛感する。つまり、話す側は、口だけで伝わらないことを、表情やしぐさを交えて、なんとか分からせようと努力するし、聞く側は理解しようと努力する。そうするとわずかな口数で、結構、意志が通じるものであろう。特に、韓国人も日本人も同じAsianであり、共通する何かがあるのではないか?
 ユースホステルの玄関まで送り届けた後、別れ際に彼が「あなたは親切な人ですね」と云って嬉しそうな顔つきをしたのが印象的であった。
 私は、開戦直前の生まれで戦争の直接の記憶に乏しいが、忌まわしい戦争のため不正常な日韓関係が生じ、今でも解決されていない多くの問題があると認識している。韓国人の若者とはわずか30分の接触であったが、このことは何となく忘れられず記憶に残っている。


賭けで勝って買った自転車
1999年8月1日
 不謹慎な行動であったが、数年前、仲間内で高校野球の勝敗を賭けて楽しんでいたころがあった。10数人が参加し、そのうち一人しか勝たないと云う仕組みになっていたのでほとんど負けばかりであった。ところが、一度、10数万の現金を手に入れたことがあった。通常、獲得金額からみて、勝者はゴルフのクラブを購入するらしい。しかし、私はゴルフに興味は無いので、自転車屋に向かった。手に入れたのは、ナショナルパナソニックのマウンテンバイクである。結局、いろいろな付属品を付けて2〜3万円の追銭となった。購入の経過はともかく、この自転車はホコリを被って放置されていることが多いが、少しは、マウンテンバイクの役目を果たした。この自転車の今までの実績を紹介する。
(1)えびの高原〜高千穂河原間を自転車で走破。
 霧島の高千穂河原から中岳・新燃岳・獅子戸岳・韓国岳を経てえびの高原に至る約10kmの縦走路は山好きの者なら一度は歩くコースである。しかし、世知辛い昨今、時間的余裕に乏しいから、登山口まで自動車を利用することになる。自動車を利用すると必ず出発点に戻らねばならない。つまり、縦走路を戻るか下道を戻るしかない。これでは、熊本から出掛け、日曜日一日歩いて、月曜日の朝に事務所に出社するのは不可能である。
 ここに、自転車の出る幕があった。つまり、夜中に自転車を積んで熊本を出発した。まず、えびの高原の登山口近くの道路端に自転車を放置した。そのまま、高千穂河原まで行き駐車場に着いたのは夜明け前であった。これだけ時間に余裕があるとのんびり歩くことができる。南岳を過ぎる頃日の出を仰ぎ、韓国岳に到着したのは昼前だったが、山頂はえびの高原側からきた登山者でいっぱいであった。それから、硫黄山を経てえびの高原に下り、自転車に乗る前に2缶目のビールを飲んだ(自動車ならこんなわけにはいかない)。それから、高千穂河原に向かって、たいしてペタルを踏むこともなく下り坂を飛ばした。その日は行楽シーズンで自動車は渋滞中、2〜300台の自動車を追い越して行ったが、最後の2km程は逆に登り坂で自転車を歩いて押し上げることになった。結局、その後の自動車での帰路は渋滞にイライラするばかりであった。
(2)自転車で有明海を廻る。
 せっかくのマウテンバイクだから、少しは遠出しようと、行くあてもなく家をでた。まず、大津を通り菊池に向かった。普段は気が付かないものだが、57号線を横断して本田技研に向かう国道は相当な登り坂で20〜30分は自転車を押さねばならない。しかし、自動車と違い、気の向くまま小さな食堂に立ち寄り、ビールを飲みながら進むから、汗をかくのが快い位である。結局、菊池を過ぎ山鹿の八千代座に立ち寄り玉名まで来てしまった。折角、ここまで来たからと長洲まで行き、丁度、船が出るところであったので自転車を下りることなく、そのまま乗船してしまって有明海を渡り多比良に着いた。それから島原に行き、外港の食堂でまたビールを飲んだ。三角に渡るか熊本港に渡るか迷ったが出航間際の熊本行きの船に乗って新港に上がった。これから、益城町の我が家まで約2時間、信号と自動車の多さにイライラしながら帰り着いた有明海半周の結末であった。
(3)自転車を押し上げた「さるすべり」の急坂
 熊本市の西にそびえる金峰山は、市民の憩いの場として知られ、日曜ともなると沢山の常連の登山者が訪れる。若い頃は市内の呉服町に住んでいたので、中学生から高校生の頃は同級生と一緒によく登ったものである。
 4年ほど前の休日のある日、話の種にでもなるかと、自転車で頂上をめざした。益城町の我が家から本妙寺までの1時間強は坂もなくただこぎ続ける。本妙寺から先は坂道でほとんど押すだけである。峠の茶屋から大将陣までも黙々と押して行った。ここから先は、いわゆる「さるすべり」の急坂、押し上げるどころか、ある時はかかえ上げ、ある時は担ぎ上げ、の連続であったが、結局1時間足らずで山頂までたどり着いた。この間、行き交う登山者に色々声をかけられた。たとえば、
 子供連れの母親「ほら、このおじさんは自転車を押しているのに、あんたも、元気をだして登りなさい!」
 40才位に見える中年の3人組「若い人は元気がいいですね!」(注)冗談じゃない。こっちは、もう、55才を過ぎているのにとおもいつつ悪い気持ちはしない。
 山慣れた人「自転車は何kgほどありますか?」(注)約15kgである。
 金峰山は山頂に茶店があり瓶ビールを販売している。雲仙を眺めながらの瓶ビールの味は格別で、2本ほど飲んで汗が引いた頃下り始めた。帰りは快適な下り坂、ペダルを踏むことなく10分程で一気に本妙寺まで着いてしまった。そして、自動車の騒音の間を縫って益城まで帰りついた一日であった。
[2回目の挑戦]−このときの山頂での瓶ビールの味が忘れられず翌年の夏にもう一度挑戦したがさんざんな目にあった。ともかく、暑さと日照により完全にバテテしまい、中腹で休憩すること20数回、頂上まで2時間以上かかった。やっと茶店に着いたとたん、今度は猛烈な夕立で止みそうもない。茶店の人は非常に親切で、困り果てた登山者を麓まで自動車で送っていかれた。こっちにも自動車に乗るよう勧められたが自転車と一緒に乗るわけにもいかない。結局、茶店も閉まってしまい、誰もいない山頂で雨宿りをしていたが、雨は止みそうもなく、意を決して驟雨の中を下った。益城町の我が家に到着するまで1時間半とうとう雨は止まなかった。
 いま思えば、2回の金峰山自転車登山、ちょっと変わった登山体験として忘れられない。
(4)「飯田山山頂」へも押し上げました
 飯田山は、我が家の南側正面にあり、毎日眺めている山である。益城町には飯田山にまつわるこんな昔話がある。
 ある日、飯田山は金峰山に向かって「オレの方が高い」と金峰山を罵った。金峰山も負けずに「オレの方が高い」と云って譲らない。それではと、両山の山頂に樋を渡し水を流したところ、水は飯田山の方に流れ飯田山は水浸しになった。これに懲りた飯田山は、もう「云い出さン」といって降参した。これが飯田山の呼び名のはじまりである。(海抜高度は金峰山666m・飯田山431mである。)
 背比べをした両山に敬意を表し、金峰山の次は、飯田山山頂まで自転車を押し上げた。飯田山の麓までは我が家から20分そこら、ここから、比高約400mを黙々と押し上げた。この山は山頂には茶店はなく、したがって、瓶ビールは期待できない。そのかわり、山頂直下に由緒ある常楽寺があり、歴史にひたり木々に囲まれてたたずむのに絶好の雰囲気がある。常楽寺の一角で一休みして、あとは頂上まで山道をがむしゃらに押し上げた。頂上は杉に囲まれ展望も何もない。ただ、金峰山と同様に、帰路は車道があるので一気に降ってしまい、我が家まで30分で着いてしまった。常人が聞けばバカみたいな話かもしれないし、自分でも時々そう思う。
(5)佐賀から熊本まで自転車で帰ったこと
 同業者のMさんと二人で、佐賀に行ったことがあった。Mさんの自動車に同乗させてもらうついでに自転車も積んでもらった。当日は深夜までしたたか酒を飲み、翌朝、Mさんと分かれ自転車で熊本までの帰路についた。意外にも、佐賀市から福岡県境までは、JRの旧佐賀線跡が自転車専用道路として整備されており快適であった。それから、大川・柳川・大牟田・荒尾・玉名を過ぎ、木の葉付近で田原坂の登り坂にかかる。このあたりのドライヴインでビールを飲み、道端の木陰で昼寝をしつつ、6時間そこらで熊本まで来てしまった。この日は全行程が舗装道路、こんな自転車旅行も快いが、やはり、マウンテンバイクは押したり担いだり、デコボコ道を下るのが楽しいような気がする。


善良な市民を罪におとしいれてしまった
1999年8月2日
 国道445号を、同僚のS君の運転で走行中、警官に呼び止められた。このときに限り、私たちは話に夢中でシートベルトをはめていなかったのである。私は「シートベルト装着義務違反」は取り締まりするほどの犯罪行為とは思っていない、なぜなら、シートベルト未装着が死亡事故につながるのなら、運転者もしくは同乗者の自覚に依存すべきであって、極端に云えば「勝手に死ぬ者はほっとけばよい」のである。むしろ、「整備不良」や「交通量の多いところでの駐車」・「無謀な暴走行為」・「著しい爆音をあげる車両」等の社会的に迷惑の大きい行為を処罰すべきと考えている。ただ、日本は法治国家であり、我々は日本国民であるから法律には従う義務があるから文句の云いようがない。
 さて、S君が、罰金か減点の手続きをしている間、手持ちぶさたであるので、道端に立つ警官の様子を見ていた。ところが、シートベルトをはめていない車両が通りかかったところ、警官はちょっと会釈して見送った。私には、この様子から、運転手は警官の知人だとしか思えなかったので、警官に何故止めなかったと質したところモゴモゴと云う雰囲気で聞き取れなかった。私は腹立ち紛れに、通りかかる車のうちでシートベルト未装着の車を指さし、警官に停車させるよう進言した。前の一件があり、警官も私の進言を無視するわけにはいかなかったのか、これからしばらく、警官は大忙し車は次々に止められた。
 罰金が国家の収入になるのなら、私は僅かながらも国の増収に貢献したことになる。ただ、このとき被害を被った善良な市民の方々には大変悪いことをしたと思い今でも反省している。


熊本の地下水
1998年12月10日
 我が家は、熊本市の東に隣接する益城町にあります。益城台地が木山川氾濫原に没する低地であり、25年程前に転居してきた頃は深度70m位のボーリング井戸から毎分200リットル前後の地下水がコンコンと湧いていました。その後、熊本市一帯の地下水事情が悪化し、周辺の宅地化が進み家庭用井戸が増えたことにより自噴も止まりがちとなりました。ここ数年は降雨の多い年は年間を通してわずかながら自噴しておりましたが、雨の少ない年は10月頃自噴は完全に停止し翌年の梅雨時に再会するというパターンでした。
 ただ、今年は腑に落ちない現象が続いています。たいして雨の多い年とは思えませんが、依然として自噴は継続しています。「水前寺」や「浮島さん」等の熊本市周辺の著名な湧水地でもこんな傾向があるようです。
 30年近く、地下水に関わる仕事をしていながら、この訳がわからないのは恥ずかしい限りですが、ともかく報告しておきます。
 なお、布田川断層は我が家の約3km先の正面を横断しており、まさか地震活動の前兆でもなかろうかとつまらぬ事を考えたりしています。


しばしば路上駐車で一杯になる事務所の周辺
1998年12月17日
 我が勤務先の事務所は熊本市の東部の戸島町にある。周辺には中学校・小学校・保育園等がありいわゆる地方の文教地区である。学校の脇道は大した交通量もないから大きな交通障害とはならないが、ここに、しばしば沢山の自動車が路上を占有する。運動会・父兄会・卒業式等の行事のときである。
 路上駐車は、特別な事情が無い限り許されることではなく法律違反でもあろう。
 私は、ここで路上駐車をとがめ立てしたり非難したりする積もりはない。理解できないのは、「生徒や児童は歩いて通っているのである。その距離を何で親は違反を犯してまで自動車を使うのか?」である。
 些細なことの様だが、今や、子供の社会教育が論じられることが多い折り、無関係ではありえない。子供は「早く大きくなって、歩くことを止め、堂々と違反行為をしよう」と教えられているようなものではないか?
 たとえば、運動会などでは、歩行困難な「おじいさんおばあさんも孫の姿を見に」来るであろうし、沢山のお弁当を持ち込むのも大変であろう。その時は、一度、学校まで自動車を使い、父親もしくは母親が家に置いてくればよいのである。
 知人の教師にこの点を尋ねたことがあるが、学校側は文書で要望するが、父兄は無視して困っているというような現状であるらしい。
 子供たちが、社会ルールを守ることに誇りを持ち、必要な時以外には自家用車を使わない健康な社会人に成長していくよう期待したい。


検診を受けた病院の駐車場
1998年12月20日
 最近は定期検診が義務づけられているようで、先頃、事務所の仲間と集団検診にでかけた。駐車場は広く整理する係員の方も非常に良心的であった。
 例によって、問診では「定期的な適度な運動」と「食生活の調節」を薦められる。私はたまの休みに山登りで汗を流すが、これは「不定期的な過度な運動」であるため、忠告を守っていないことになる。
 私の考えでは、定期的でなくとも、汗を一杯かくような急激な運動のほうが精神的にも肉体的にも良いような気がするが如何なものであろうか?ちなみに、私は、歩くことは好きで、我が家から事務所まで約70分往復140分、歩くこともあるが、疾走する自動車が多いことと、時間的余裕が乏しいためなかなか継続できないのが現状である。
 念のため、「定期的な適度な運動」に決して反対するものではない。
 さて、駐車場で思ったこと。「保健婦さん」の忠告を忠実に守るならば、車は、広い駐車場の一番奥から埋まって行く筈であろう、その方が歩く距離が長くなり健康に良く、わずかながらも寿命がのびるかも知れない。しかし、現状は入り口付近に密集し、奥の方はガラガラであった。
 折角だから、次に検診に行った折りには、私は一番奥にポツンと自動車を置いて歩行距離を延ばした。


バランスのとれた栄養
1998年12月20日
 次に、「定期的な適度な運動」と「食生活の調節」のうちの後者について。
 まず、食生活は簡単に変えられるものではなく、特に戦時・戦後を通して食い物に不満があった世代にとっては、贅沢ではなくとも好きな食べ物をたらふく食べたいという欲望は捨てきれない。ただ、栄養士の説得を無視するのは失礼にあたるから、色々尋ねてみると「バランスのとれた栄養」が必要とのことでもっともだとおもう。しかし、「バランスのとれた栄養」となると素人には難しい。少なくとも「食料品店」で「バランスのとれた栄養」を下さいといっても手にはいるわけはない。<注:もしかすると、一昔前の場末の八百屋さんでは的確な献立を進めてくれたかもしれないが>
 結局は、忘年会や会食が続いたこともあって「バランスのとれない栄養」をとりつづけて今年も終わる。


米の価値も変わったものである
1998年12月27日
 昔に較べれば外食が増え、街は飲食店で溢れており、お金さえあれば何でも好きなものが食える世の中である。
上の話の続きで「栄養士さん」の忠告。食堂の献立の量はかなり多すぎる。したがって、栄養の採れそうなものは食べても、ご飯はなるべく残すように心がける様に。と受け取られる指導であった。なるほど、個人の健康だけ重視すればそうであろう。ただ、お米は一粒も残すなと教えられた我々にとっては何とも納得のいかない話であった。お百姓さんに対する感謝の気持ちや、食べ物はもとより物を大切にする心がけは、健康と同様に個人にとって大切な事ではないか?全く時代も変わったものだと痛感する。


不法客待ちのタクシー
1998年12月27日
 年末ともなり、人並みに何かにつけ街に出て会食をする機会が多かった。調子にのって、深夜あるいは明け方まで飲み続けることも少なくなかったが、会食が10時頃済んだ時にはバスに乗って帰るようにしている。バスには熊本の繁華街の中心・通町筋から乗ることになるが、バス停に客待ちするタクシーには腹が立った。
 まず、バス停は法律あるいは条例でタクシーとはいえ停車が禁止されている筈である。次にバスの利用者がバス待ちや乗降に支障を来しているし危険でもある。
 断っておくが、ここで単にタクシーの運転手を非難しているのではない。昨今の不況でタクシー運転手が困窮状態にあることも知っている積もりだし、あくまでもタクシーは公共交通であり、日頃運転中も実車のタクシーには道を譲るよう心がけている。腹が立つのは、駐車違反のタクシーがKタクシーの一社だけだったからである。タクシー運転手にも仲間意識があり協調精神もあろう。目に余る違反を犯してまで自社だけ利益を得ようとする精神が気にくわなかった。止まっていた4台のKタクシーのプレートナンバーを控えたのは、これを見て少しは自重するかと思ったからであるが、全く気にする様子はなかった。酔いの勢いで運転手の一人に荒々しい言葉を放ったが黙認された。
 この不景気の時代に、業界は違うとも我が社も困窮しているが、同業者に不義理をするようなことはしたくないものである。


初日の出は俵山で見ました
1999年元旦
 時間的余裕と天候が許す限り、毎年、元旦には山に登るようにしている。
   1998年 阿蘇烏帽子岳 -- 曇天で全く駄目。1月2日に再挑戦。
   1997年 祖母山 -------- ともかく寒かったが、見事な日の出がみられた。
   1996年 八方ヶ岳 ------- 寒かった。まあまあの日の出。
   1994年 俵山 ---------- まあまあの日の出。
   1993年 久住中岳 ------ 天気快晴、風も無く最高。
 俵山は我が家から最も近い山で、登山路は良く知り尽くしており、あまり人に知られていない最短ルートを使うと、家を出発してから頂上まで2時間半以内で到達することができる。
                    (自動車)我が家〜登山口 −−−−− 約40分
                    (徒歩) 登山口〜山頂 −−−− 約90分(下り70分)
 久住からはちょうど大船山から日が昇り、天候さえ良ければ抜群である。ただ、登山者が多いのに辟易させられる。ともかく12月31日の深夜は、長者原も牧ノ戸峠も明かりがコウコウと灯り、自動車の騒音などは都会並みである。
 年をとると人混みが苦手であり、体力の衰えとも相談し、今年は俵山に出かけた。夜中の3時半頃家を出発し、時間をつぶしながら歩いて、俵山山頂には6時30分に到着、約50分待って無事に日の出を見ることができた。
 山頂に到着した時は一人きりだったがそのうちに30〜50人位になった。俵山山頂は広々としており、日の出の時刻(7時19分)には、それぞれ写真を撮ったり感嘆の声を上げたりしていた。
 登山者の年齢層は老人から子供まで、若い男女も見かけられた。普段の俵山で出会うのは、ほとんど年配者であり、若者と出会うことは少ないが、これを機会に若い人たちが山登りに興味を持つことになれば喜ばしいことである。
 日の出はさることながら、真横から朝日を受けて紅色に映える阿蘇五岳の景観は見事であった。遠くには、久住連峰・祖母〜傾山の稜線・諸塚山地・国見岳を中心とした九州脊梁の山々、さらに、西に目をやれば雲仙・金峰山を仰ぐことができ、山頂で小一時間たたずんでいた。
 一つ残念なことは、ほとんどの登山者は初日の出に感嘆した後、周りの山々には興味を示すことなく、さっさと下山してしまったことである。
 まさに、山々は正月にちなんで朝日の晴れ着を纏っている感があった。山だって晴れ着姿をみんなにゆっくりと見てもらいたかったに違いない。


古い友人がまた逝ってしまった
1999年1月7日
 正月早々4日の新聞を見て驚いた。高校の頃親しかったA君の死亡公告を目にしたからだ。100kg近い巨体を持ち豪放磊落な性格で、「ワッハッハッ、オイ吉村」と背中をポンとたたく姿は今でも忘れられない。元旦は息子と酒を飲み、2日には亡くなるとは、全く彼らしい豪快な最期であろうが、気の毒でやりきれない気持ちになった。
 彼は塾の教師であったが、地学に興味を持っており、地質巡検で同行したこともあったし、電話で地質に関わる質問を受けたこともあった。細かいことまでしつこく尋ねられるのには閉口したが、彼はそれほど熱心だったのだろう。
 高校時代の彼との思いでは将棋と幾何にある。勉強嫌いの自分でも、ちょっとした思いつきや発想の違いにより補助線一本で解ける幾何学は熱心では無かったが好きであった。一時期、彼とつきあうことにより幾何の成績だけは人並みとなったことがある。
 2年生の頃は、休み時間は将棋・修学旅行の時も見学よりも将棋指しに専念した。最近会った時も「お互いに「俺の方が強かった」と本気で言い争ったものだが、本当は彼の方が強かったのである。決着を着けようとの約束も果たさずに逝ってしまったので、雌雄はあの世で決することになった。最近は将棋を指す相手も機会もないが、腕を磨き3番勝負に備えねばならない。また、自分の棺桶には将棋盤と駒を忘れぬように、ついでに高校時代の幾何の教科書を持っていこう、こんなことを本気で考えるのが彼に対する供養になるのではなかろうか?


社交家・内藤さんの急死
1999年1月23日
 人の命はなんとはかないものであろうか?
 内藤さんは大栄調査開発の社長を息子さんに譲り、同社の会長となったばかりであった。ボーリング業界の同業者として少なからぬお付き合いをさせていただいていた方であるが、大変な社交家で、むしろ夜の会食の付き合いの方が多かった。
 1月20日に、同業者のMさんから電話があり「内藤さんが----」と聞いたところまでは、新年の会食の誘いと早合点したが、続くせりふは「危篤です」であり、その2時間後の電話は「亡くなった」であった。そして、彼の親しみある笑顔は22日の葬儀場での写真で拝見するのが最後となってしまった。
 思えば1月8日に新年宴会のお誘いがあったが、他の会合と重複したためお断りしたのが返す返すも残念である。しばらくは夜の街を歩く度に彼を思い出すであろうし、もしかしたら、彼の馴染みの店のあたりで、あのにこやかな笑顔で微笑みかけてくれることを期待しよう。自分よりずっと若い享年55歳であった。今はご冥福を祈るばかりである。


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