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その1. 出生〜小学校卒業まで


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吉村陸太郎 rikutaro yoshimura
1940年9月12日 東京市蒲田区下丸子で出生
下丸子時代 陸太郎という名前はどちらかというと稀であろう。名前の由来は近所に「海太郎」という方がいらっしゃったからだ。海太郎さんは私より2つ年上で、小さいころから「本の虫」であった。すでに、小学生のころ、私には全く理解できない難しい本を読んでいる姿が記憶に残っている。一昨年の秋、教育テレビの番組「未来潮流」に登場され「電子本」のお話をお聞きし、約40年振りに姿を拝見することができた。また、最近は、インターネットで近況を知ることができた。彼は、現在、ある出版社の編集長である。海太郎さんの家族とは、後に我々が下落合に引っ越した頃、家が近かったこともあって家族ぐるみのつき合いをさせていただいた。家族の方は皆優しく理知的な方で、東京時代にお世話になったことに今でも感謝している。なお、昭和30年代のNHKテレビの人気番組「事件記者」の白石記者役で登場していた俳優の近藤洋介さんは、海太郎さんの叔父にあたり、私も小さいころは可愛がっていただいた。
こちらの「陸太郎」は「海太郎さん」に比べて誠に頼りなく恥ずかしい限りである。
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丸子多摩川・矢口の渡し辺りで遊んだはずであるが全く記憶なし。
戦争が激しくなり、父が兵隊にとられて出征したため、父母の郷里である熊本に引き上げる。
坪井時代 熊本の坪井で戦時下を過ごす。「浄行寺」から入ったところ「赤鳥居」の先の「七曲がり」に住む。戦争の記憶はわずかに残っている? ただ、われわれの世代の戦争の記憶は、実際体験したことと、親達に聞かされたこと・後で本で読んだことなどがチャンポンとなりきわめてあやふやである。市立高校付近は「田畑」と呼び、一面の水田であった。この辺で遊んでいたとき、飛行機が飛んできてどこかに隠れたような記憶がある。
1944年(昭和19年)母にとって最大の悲劇が発生した。2つ下の弟「治郎」の死である。ちょっとした食中たりから自家中毒にかかり、あっけなくたった2年の生涯を閉じた。空襲警報発令下で満足な治療もできず叔母達の涙に囲まれて去っていったのである。私は、ある意味で戦争の被害者であると考えている。私は小さい頃から、戦車や戦闘機や軍艦が格好良いと思ったことはないし、軍服や権力に抵抗を感じるのは弟「治郎」の死に関わりがあるのかも知れない。
敗戦後、米軍が進駐してくる。女ばかりの家族であったが、叔母たちが活発な性格であったためか、若い米兵が毎日のように家に遊びにくるようになり、チョコレートやチューインガム・それに今思えばプラスチック製のおもちゃなどに恵まれ、ありがたい幼児期であった。(注)家族と帰国後の米兵とは、その後もずっと文通などで交流が続いていたようである。特に祖母は60歳を越えていたが、アメリカに行った帰りにハワイに立ち寄り、農業で成功した元米兵との感動的な再会の話を聞かせてくれた。
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1947年4月 熊本市立黒髪小学校入学
黒髪小学校については、教師・友人・通学路等全く記憶がない。
呉服町に移転する。
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1948年1月 熊本市立五福小学校に転校 
呉服町時代 ここをクリックすると五福小学校昭和28年卒同窓会のページにリンクします。
ともかく弱虫で泣かされてばかりいたようである。遠足で花岡山に登ったことぐらいを覚えている。
(注)6年後に熊本に戻ることになるが、五福小学校6年2組の同窓会に参加させてもらい、気さくな仲間の一員となって、2年毎の同窓会の会合が楽しみである。
ソ連に永く抑留されていた父親が復員し、東京の会社に復職することとなり、世田谷に移転する。
両親が住居を確保するため一足先に東京に行ったので、数日遅れて姉と二人で両親の後を追った。旅客機など無い時代であり、当然、列車を利用した。おおむね30時間近くかかったと思う。静岡付近を通過するとき右に左に見事な富士山の姿を仰いだ記憶があるから、その日の天候は快晴であったのだろう。このときの印象が強かったのか、その後、小学校の図工の時間の版画は富士山を題材にしたものが多かった。
1949年1月 東京都世田谷区立若林小学校へ転校
世田谷時代 玉電(現東急世田谷線)松陰神社駅から5分ほどのところで間借り生活をはじめる。東京は大変な住宅難で、医院の診察室の2階で寝泊まりし、炊事場・便所は1階を利用するという不便な生活であったが、当時はそれが普通であり特に悲観することではなかった。ただ、診察室の上であったためともかく騒ぐことはおろか歩くのさえ音をたてないように心掛ける生活であった。
当時、田舎からの転校生は珍しくはなかったが、さすがに、九州熊本からの転校は稀であった。言葉使いを笑われたり、お使いに行って失敗したり、転校生としての一応の戸惑いを経て下町の仲間の一員となっていった。たしか担任の教師は鈴木先生という若い女の先生であった。同級生の名前は一人も思い浮かばないし、その後の交流も全くない。今から10年ほど前、東京を訪れた際、昔の記憶をたどって松陰神社駅前に降り立ったが、記憶があやふやなのか町並みが変わってしまっていたのか、当時住んでいた家にさえたどり着けなかった。
当時の東京は、いうまでもなく食糧難時代であった。横浜の方が少しはましだったのか? 知人を頼って食料を確保しにいったこともある。玉電の「松陰神社前」から玉電に乗り、「渋谷」で乗り換え、東横線で「横浜」の一つ先の「高島町」で下車し、醤油瓶や風呂敷包みをかかえて東京に戻ってくる。小学校2〜3年の頃であったが一人で出かけていったし、少しでも早く行こうと急行と各駅停車を乗り継ぐコツも知っていた。叔母達が、渋谷や目黒周辺に住んでいたから、しばしば遊びに行ったりしていた。上野動物園や博物館にも出かけた。おかげで東京の交通網には詳しく、迷うことはまずなかった。渋谷−目黒間の電車賃は子供3円だったと思う。今はJRと呼ぶが、当時は国電であり、大人達の中には省線と言うものもいた。以前は運営主体が鉄道省だったそうだが本当か嘘かは知らない。
少しはましな住生活を目指して下落合に移転する。
1950年4月 東京都新宿区立落合第四小学校へ転校
下落合時代 山手線外回りで、高田馬場を発車し目白に向かう途中で、左側の高台に見える学校が落合第四小学校です。
下落合の駅から5分ほどのところ、神田川のほとりの旧工場脇の2階で間借り生活を始める。ここは父親の会社が社宅として借り上げていた家であった。
2階の4間を2間ずつ分けて、2所帯が住む状態であり炊事場と便所は共用であった。ここから、10分〜15分位歩いて落合第四小学校(略称は落四<おちよん>)に通った。ここは台地(地形区分ではおそらく武蔵野面に相当すると思うが、当時はそんな知識は全くなく違うかもしれない)と神田川の低地との接触部にあたり、学校には「下町」と「山の手」両方の子供が通っていた。「山の手」(坂上と呼んだ)には富豪が多く、「下町」(坂下と呼んだ)には貧乏人が住んでいるという傾向があった。
「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」ご存じ太田道灌にちなむ歌が小学校の校歌に読み込まれているほどに、周りは武蔵野の自然が残っていた。晴れた日に富士山をみるのは普通であったし、裏山で椎の実を拾ったり池でエビガニ(アメリカざりがにのことをエビガニと呼んでいた)を獲ったり、神田川にじゃぶじゃぶ入ったりして遊んだ。
毎年2回位行われる遠足は楽しみであった。千葉県の海岸に潮干狩りにに出かけたことがある。当時は江戸川の鉄橋を渡って市川に入るといかにも田舎に来たという感じで自然を満喫できたのであろう。今は面影もないだろうから行こうとも思わない。
所沢で武蔵野線(西武池袋線)に乗り換え、飯能で降り、正丸峠に行ったときは霧につつまれ雲の中にいるという印象を初めて体験した。
夏のキャンプは狛江であり、多摩川のきれいな水で水遊びをした。人間社会が発展していくための宿命とはいえ、都会化のために、武蔵野の自然や多摩川の清流が無くなってしまったことは残念である。
ここをクリックすると下落合当時の写真がでます。
西武線が高田馬場から延長して「西武新宿駅」ができた頃で、新宿まで「国電」で時には歩いて遊びに行ったし、高田馬場に最初の映画館ができたのもこのころであった。西武新宿駅周辺の歌舞伎町あたりはまだまだ寂しいところであった。
魚釣りは、友達と連れだって、電車に乗って市ヶ谷の堀まで出かけていた。
仲良しだったH君の思いでが甦る。H君は腕っ節も強く、成績は中のちょっと下で典型的ないたずらっ子だった。当時の5年生は10人位の班員で、放課後1年生の教室の掃除が義務づけられていた。例によってH君は、いたずらをしでかし、帰り際のホームルームには姿を見せなかった。班員は愚痴をこぼしながら掃除に取りかかったが、きれいさっぱりと片づいていて雑巾がけも済んでいる。つまり、H君が10人分の清掃労働をこなし、だれにも告げずに、そのまま帰ったのであった。
昨今、子供の躾が話題になるが、当時は「わるごろ」=「憎まれもの」ではなかった。「わるごろ」こそヒューマニズムに満ちた存在だったのであろう。その後、H君とは会ったことはない。今は、腕力と優しい気持ちを生かして立派な社会人になっているものと確信している。
学芸会の劇には良く参加したが、それより、談話が面白かった。全校生徒の前で「話し」をするのである。自分は人前での話は苦手であったが、3人の友人の「話し」は大喝采をあびた。一般に、人前で話しをするとなると、親や教師に相談して練りに練った原稿を立て板に水を流すように流ちょうにしゃべるのが良いとされがちである。しかし、この3人はちょっと違っており、3人とも成績や先生の評価はあまり良くない。まず、I君、彼は相撲の知識と来たら大人も及ばない。双葉山の優勝回数から全幕内力士の所属部屋や成績をこと細かく披露して全校生を感心させた。次に、T君、彼は「魚釣り」の極意を釣り場はもとより、仕掛けの方法まで手先で実演しながら説明した。最後は、K君、彼はなにが得意かと見守っていたら、選挙の立候補者の演説を実演してみせたのである。
成績の善し悪しだけではなく、子供それぞれの特技を生かして学校生活を楽しんでいた良き時代であった。学校の勉強よりも、図書館で、「ドリトル先生」や「愉快なホーマー君」「厳窟王」「江戸川乱歩」等を借りて読むのが好きな子供の方が、豊かな社会生活を送っているのであろう。
テレビ放送が始まったのもこの頃だったと思う。もちろん白黒であり一般家庭への普及はまだまだで、相撲放送のときには電気屋の前に人だかりができ、短期間ではあったが入場料を取ってテレビを鑑賞させる劇場?さえあった。渋谷駅の側の「渋谷食堂」に相撲のテレビ放送を見るために、夕方になると叔母に連れられて出かけたことも度々あった。
相撲といえば、母方の祖父が明治時代の富豪で相撲が好きで力士に「化粧まわし」を送ったほどで縁が深かった。祖父の「ひいき」の当時の「松ヶ根親方(現役のしこ名は紅葉川)」という方が相撲協会の役員であったため、浅草橋の蔵前国技館へ行きロハで観戦した。城戸口で「松ヶ根親方はどこにいるの」と尋ねると、「そっちに行ってごらん」という案配で無料入場を続けた。小さい子供の一人二人から銭をとることもなく私にとっては良い時代であった。
どうゆう理由か記憶がないが、「坂下」の神田川のほとりの家から「坂上」に引っ越した。ここは台地の縁で大変見晴らしの良い所であったが、一軒の家に4〜5所帯が住み、炊事場・便所は共用で両親と姉と4人で8畳一間に住むという状態であった。8畳とはいえタンスや食器棚などを置けばスペースはわずかで、勉強机や本棚などはなく、食事が済んだちゃぶ台で宿題をするのが普通であったが、不満に思ったことは全くないし別に恥ずかしいことでもなんでもなく、むしろそれ以上に厳しい生活をしている人も珍しくなかった。
小学校時代の成績は人並みであったが、どちらかというと、音楽・図工・体育は苦手であり、算数が得意ということになっていた。
そろばん塾とか習字の塾などあるにはあったが、自分には全く関係なく、塾や受験勉強などとは無縁で、現在の子供に比べれば非常に恵まれた小学校時代を過ごしたといえる。
当時、成績優秀な児童は上流家庭の子が多く、「武蔵」や「暁星」や「早実」などの私立に進んでいった。私は親しい友人達と共に「落四」に隣接する新宿区立の「落合中学校」に入学した。
1953年3月 東京都新宿区立落合第四小学校卒業

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