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その2. 落合中学校時代


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吉村陸太郎 rikutaro yoshimura
1953年4月 東京都新宿区立落合中学校入学
下落合から通った頃 何の目的もなく、何の抱負もなく、中学校へ進んだ。入学の頃の印象が全くといえるほどないのは、校舎が小学校と隣接していて、しかも、多数の小学校時代の仲間と一緒だったため新鮮味がなかったためであろう。小学校の頃に成績優秀者?で裕福な家庭の子供は私立に進んで行った。私立進学組の中でも、大富豪の次男で、理科が好きで特に親しかったE君だけは2年ほど交流があったが、その他の私立進学者はそれっきり顔をみたこともない。ともかく、中学3年の時に熊本市立藤園中学校に転校したため、落合中学の卒業生名簿に名は無いし、現在、交流を続けている友人は無い。
物好きで、しかも飽きっぽい性格だったため、文芸部・バレー部等に所属したりしたが、1ヶ月も保たず、ただ、借家と学校を往復するだけの中学生活だった。
田無に転居 中学2年の時に、ささやかではあったが、郊外の「田無町」に家を新築して転居した。今風にいえば「マイホーム」であるが、敷地が30坪、建物が15坪以下の将に「ウサギ小屋」であった。現在の「田無市」は、大変便利の良い住宅地であろうが、当時は「北多摩郡田無町」で家の周囲は一面の水田であった。おそらく、人口は1万人以下であったと思う。商店街は、田無駅前と駅から数百m北に行ったところの「青梅街道沿い」だけであった。ただ、交通の便は非常によく、西武線を利用して高田馬場や新宿まで容易に行くことができた。「田無」は急行の停車駅で、各駅停車の始発駅でもあり、電車に恵まれていた。たしか、高田馬場まで急行で23分、各停で31分だったと記憶している。特に、家から駅まで歩いて1分・走れば30秒程度であり、電車の姿が見えてから遮断機をかいくぐって走り込むようなこともあった。
当時の生活は次の様なものだった。
間取り---6畳と4.5畳で借家時代とたいしてかわらなかったし、後に、建築費の一部に当てるため、4.5畳には下宿人がいたし、小さい自分は下宿人の部屋のもぐり込んで寝ていたこともあった。
電気---電気はあったが照明器具は各部屋に電球があっただけである。
テレビ&ラジオ----テレビはもちろん無く、声を発するだけのラジオが1器あった。
燃料---炊事には木炭を使っていた。
用水---水道は無かったので井戸水を使っていた。多くの家では「つるべ井戸」であったが、我が家は最新式?の手押しポンプであった。
下水---都内にさえ下水道は普及しておらず、庭の片隅に直径2m程の穴を掘って浸透させていた。(今だったら汚染問題で大変である)
騒音---自動車の騒音など全く関係ないが、線路脇であったため電車の音とともに暮らしていた。
空調---暖房は火鉢だけで、冷房と云う言葉さえ知らなかった。
風呂---銭湯へ行っていた。風呂付きの家など実感したことさえ無かった。
田無から通った頃 田無の中学に通うことも考えたが、結局、落合中学に電車で通学することにし、約1年間「田無」と「高田馬場」の間を往復することになった。朝7時過ぎに電車に走り込んで満員電車に揺られるのは苦痛もあったが、色々楽しいこともあった。特に、冬季は暖房の乏しい中に朝早く起きるのは厭だった。今でも、朝起きて、暖房のスイッチを入れる時には、当時のきびしい生活が思い出される。
落合中学は「高田馬場」と「下落合」のほぼ中間点であったので、気の向くままに両方の駅を利用した。つまらないことは記憶に残るもので、今でも「高田馬場」−「田無」間の駅の名は憶えている。「高田馬場−下落合−中井−沼袋−野方−都立家政−鷺宮−下井草−井荻−上井草−上石神井−武蔵関−東伏見−西武柳沢−田無」であるが、いまでは変わっているかも知れない。このうち、急行停車駅は「高田馬場・鷺宮・上石神井・田無」であった。
ともかく、急行の時は高田馬場で下車し各停の時は下落合で下車していたと思う。ただ、下落合は出口が左であり、鷺宮あたりから混み始めるので、当時の満員電車では、下落合で降りるためには、あらかじめ左側の出口付近に立っている必要があった。
「高田馬場−田無」間の学割定期は330円であったと思う。大人片道運賃が40円であったから約4日分である。
どうゆう分けか、高田馬場−上井草間は20円・上井草−田無間は10円であったので、高田馬場から上井草までの乗車券を買って、田無駅で降りるときに乗り越し料金を払えば10円安くなる。定期が切れたときなどは、この方法を用いていた。
希に、雪や停電で電車が止まり、学校に遅れることがあった。こんなときは駅で証明を貰えば遅刻扱いとはならない。いつもこれを期待していたがめったに無かった。特に、西武線はストライキをやらないのでストの恩恵をこうむることは無かった。
高田馬場駅から落合中学まで10〜15分位であったか、下町の小さな工場がたくさんある道を通ったような記憶がある。神田川沿いの町工場だったと思うが黒ずんだ町並みであった。南こうせつ作曲の神田川に歌われた雰囲気があったようで、この歌を聞くとなんとなく懐かしい気がする。
途中下車して、目的もなくぶらついたこともあった。姉が井草高校に通っていたので、上井草で降りて高校の周辺をブラブラしたこともある。ほとんど忘れてしまったが今思えば武蔵野の林が続いていたような印象がある。東伏見には早稲田大学のプールがあって一般にも低料金で提供されていた。プールに乏しい時代であったので、夏は数少ない遊興施設として利用していた。
(思い出しながら追加します)
なお、現在は里帰りと称して家族共々帰省することが普通であるが、東京で暮らした6年間に一度も熊本に帰ることはなかった。交通事情が利便性の点で異なることもあるが、それより交通費の負担が経済的に困難であったからであろう。
1955年4月 熊本市立藤園中学校に転校
藤園中学校に通ったころ 父が離職したため、郷里の熊本に帰ることになり熊本市立藤園中学校に転校する。藤園中学はわずか1年の在学であったが、親しい友人ができ、立派な担任の教師に恵まれて、その後の自分の生活に大きな影響を与えることになり、大変有意義だったと考えている。また、小さい頃から、親子兄弟同様に親しんでいた多くの親戚の者と一層親しい交流が始まりこの点も非常に有意義だった。

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