吉村陸太郎のページへ戻ります
その3. 藤園中学校時代


アンダーラインの字句をクリックすると詳しい情報・画像・他のホームページ等にリンクします。
吉村陸太郎 rikutaro yoshimura
1955年4月 熊本市立藤園中学校に転校
藤園中学校に通ったころ 父が離職したため、郷里の熊本に帰ることになり熊本市立藤園中学校に転校する。藤園中学はわずか1年の在学であったが、親しい友人ができ、立派な担任の教師に恵まれて、その後の自分の生活に大きな影響を与えることになり、大変有意義だったと考えている。また、小さい頃から、親子兄弟同様に親しんでいた多くの親戚の者と一層親しい交流が始まりこの点も非常に有意義だった。
帰熊した年は、いわゆる熊本大水害の翌年で熊本の町は惨憺たる状況で復興の途上にあった。ともかく、白川にかかる橋は長六橋と大甲橋を除いてほとんど仮橋で、いたるところに泥土が積み上げられ、大水害の後を目の当たりにした。
藤園中学の3年5組に編入となり中学最後の学年を過ごすことになった。学校は、当時、新町の木造校舎であったが、編入直後に現在地の坪井に移転した。我が家は呉服町であったから坪井まで毎日片道30〜40分の道のりを往復した。
(注)藤園中学は五幅・慶徳・城東の熊本市中心部の3小学校が校区となっている。
 もご覧下さい。
ここをクリックすると、藤園中学校校歌がでます。伴奏も付いています。
担任の漆島先生 担任の教師は漆島先生であった。この先生は国語の教師で、一風かわった方であったが、形式張った指導や進学問題にとらわれず、ヒューマニズムに溢れ、教え子を心から愛し大事にする先生であった。
舞踊の指導をされており、剣舞も相当の腕前だったらしい。
何度か、小学校低学年の児童の舞踊のご指導を拝見したが、このとき「峠三吉」の詩が流れていたから、テーマは原爆をとりあげたものだったのだろう。
先生は当時、藤崎宮の吉田司家の一室での借家生活であった。家族も多く、かなりの貧乏所帯のようであった。それでも、在学中も卒業直後も、私だけでなく、多くの教え子を呼んで、話やゲームをするのがお好きだった。また、好酒家で自家製のドブロクを常飲され安価な焼酎を飲んでおられた。
進学指導を受けた記憶はないし、また、国語の授業で特に印象に残ったものはない。当時の藤園中学は熊本市内でも有数の進学校であったが、その中にあって、自発的に勉強し、自ら進路を決めるような指導方針だったのであろう。先生の期待に応えたかどうかはともかく、ほとんどの教え子は、あるものは自分で決めた高校に進学し、また、あるものは、職場を選んで社会へ巣立っていった。
昨今、教師の人間性も指導力も、父兄の躾も社会的責任感も、そして、子供の体力も学力も子供らしさも、低下しっぱなしのようである。
「あの世におわす漆島先生、この娑婆の不正義・不義理・不道徳をどう思われますか?」
ッタク、漆島先生の酒の残りの一滴を、最近の教育関係者に飲ませてやりたい心境である。(1999年7月24日 R.Y.)
この文章は漆島先生が「藤園・創立十周年・新校舎落成記念誌」に書かれたものです。
1.良妻に連れ添うこと三十五年の銀婚男、それが舞踊芸術という隠し女と三十年も手が切れず、何度ルソベンや代用教員にたったことやら。熊本へ帰つてからもその故に学校を辞めたらと辞職勧告も受けた第一号? それが御人様の情けで全く突然本校に転任となって新町教室で赴任の挨拶したのが昭和二十七年春四月。有難くて涙が出た。十周年式典で永年勤続の表彰を受けて、この僕が、と、うたた感慨無量だった。
2.お正月の屠蘇がきき過ぎて小一ヵ月出勤簿の捺印忘れていたのであわてて隣りの河原畑先生の表を見てポカポカ押していたら僕のは裏の頁だったので七月分を大半出勤してしまってアッと気がついた。どうしてこんなに抜けているのか。此の上御人様に迷惑をかけぬよう日夜神仏に祈つている。
3.取り組んでいる研究は何もない。教師として申訳なく思う。唯どの国語教材を見てもすぐに舞踊構成の過程を考えるという事実だけはどうしようもない。
4.藤園の生徒に望むことは何一つない。唯此の「若い人達」が好きで好きで一緒に暮すことが楽しい、楽しい。
           漆島 覚     (ニ七・四)

数年前、親友の野口君が大事に保存していたアルバムを拝借して、たくさんの写真を複写した。最近になって、この写真をスキャナーで画像化し思い出を新たにした。
この写真は、3年生になったばかり、藤崎台の現YMCA前で撮影されたもののようである。
亡くなられた方もあるが、みんな、今では60歳直前の”オバサンとオジサンである”
みんな「自分ではまだまだ若い」と思ってる(はず)だから、あえて”オバアサン・オジイサン”とはいわない。
(注)男子でひとりだけ長髪の子がオレです。

◎上段一番左 [内野君] 背は小さいが、学業成績優秀でスポーツ万能な好青年で、お互いにまじめに人生感などを語り合った仲であった。鹿児島大学農学部に進学したことを知り、10年程前に消息を探った折り、すでに死亡の情報を得た。返す返すも残念である。
◎上段左から2番目、おばあさんに育てられた駄菓子屋の子供の「永田君」、成績は一番で、オレは足下にも及ばなかった。現在、九州工業大学の教授で、3年程前に再会したとき、さすが永田君、研究の道に進んだ秀才、と再認識した。現代の高校生諸君、「塾や教師や親に頼らずに大学教授になってみれ」といいたいモデルである。
◎上段右から2番目は、現在もっとも交流の盛んな「稲田君」、畳屋の後を継がずに海苔屋になって海苔業界で活躍したが、もちまえの負けん気で任せられた会社を退職し、現在は山歩きを楽しみ「悠々自適の生活」である。
◎上段一番右は「西川君」、昭和30年8月28日の全日本中学校放送陸上競技大会の800mリレーで日本一になったアンカー、済々黌に進学し、土木建築の道を目指し、清水建設の要職に就いた学業とスポーツ両面の秀才である。
◎下段一番左の「沢田君」は、ユニークな男だった。中学時代は野球で身を立てるつもりで済々黌に進んだが、幸か不幸か、我々の学年は済々黌が早稲田実業の王投手を攻略して春の甲子園で全国制覇をなした世代で、さすがの彼もレギュラーで出る幕は無かった。それではと、東大の野球部を目指す意気込みもむなしく、早稲田大学に進学し、結局は哲学を志した。彼は、のびのびとした性格で、自由奔放、いたずら好き、話していても本当に楽しい男であった。ただ、哲学に凝りすぎたのか、晩年は一般社会になじみきれず2年程前に他界してしまった。残念ではあるが、何にも代え難い彼の憎めない性格は、いまでも同窓会の席上で話題にならぬことはない。
◎下段左から2番目、多分「オレ」だと思うが違うかも知れない。
◎下段右から2番目、「白石君」は熊本市の繁華街にある老舗の印刷屋の息子で、勉強は得意でも進学せずに就職の道を選んだ。10年程前にお好み焼き屋で突然出会った以後は会っていない。
◎下段右端は「中山君」おとなしい性格で家が近所であり、家族どうしのつき合いがあったが、早く亡くなってしまった。

当時、中学生とは思えぬほどチャーミングで活発だった二人。
◎左は「Aiちゃん」 現在、著名な音楽家の嫁さんとなり、熊本市内でクラブをやってます。「一度ご来店下さい」
◎右は「T子ちゃん」 かって、熊本一繁盛したクラブをやっていましたが、引き際は見事で現在は家庭の主婦。

上の写真は中学卒業直後の夏休みに集まった時、純真無垢な16才の若者たちです。漆島先生を囲んで酒が出ない筈はない。未成年者飲酒禁止法など全く縁のない良い先生でした。
あるとき藤園中学に当直の漆島先生を訪ねた時の思い出
たしか高校2年か3年の日曜だったと思う。藤園中学に出向いたところ、漆島先生は当直で職員室に一人であった。かなりお酒が入った様子であったが、体育館では小学低学年の女の子が舞踊の練習をしていた。久しぶりに会った先生の、私への歓迎ぶりは次の通りであった。
(1)まず例のにこやかな顔で、「オイ吉村良く来た」と云いながら、方々の机の下をなにやら探していらっしゃる。やっと探し出せたのは、ホコリと蜘蛛の巣にまみれたコップである。当時、藤園中の職員室には食器棚はおろか客用のコップなどあるはずはない。先生は私に自家製のドブロクを飲ませるためのコップを探していたのであった。
(2)私は18才に満たない年頃であったが、先生の満足そうな笑顔を肴に飲み続けた。
(3)この間、先生は、女の子の舞踊の指導と私との酒のつき合いで体育館と職員室を行ったり来たりしていた。
(4)舞踊の練習も終わり、女の子達が帰ったころ、先生持参のドブロクの一升瓶は底をつき、外は暗くなっていた。
(5)それから、町に出ることになり、二人で肩を組んで歩き出した。藤園中学は熊本の市街地の西にあり市内までは歩いて10分そこらである。丁度、信愛女学院の近くを通りかかったとき、二人で立ち小便をした。酔っぱらっているから分別もない。おそらく、よその家の門前だったのであろう。頭の禿げたオジサンにひどく叱られ、教師と教え子が並んで頭を下げた光景を思い出すと今でも笑わずにはいられない。
(6)そのあと、先生にとっては教え子・私にとっては同級生の「Yoneちゃん」のお母さんがやってる店で飲み直した。
これだけ飲めば二日酔いは当然で、翌日、学校には行けるはずはない。
私は、仕事の面でも、勉学の面でも、立派な恩師に恵まれ、同級生や先輩・後輩に支えられて生きてきた。その中で、漆島先生のような立派な方に出会ったことは何よりも幸運であったと確信している。未成年者の教え子に酒を飲ませ、二日酔いで学校をサボらせるような教師・それでいて尊敬される、こんな貴重でかけがえのない立派な教師は、現在、日本中に何人いるのか?
この下は思い出の写真を羅列しただけです。
上の写真は海水浴を楽しんだときの様子です。この中で、サングラスをかけた派手な女性が「Yoneちゃん」です。彼女は容姿端麗・スタイル抜群で、現在、土建会社の社長夫人です。彼女は性別を抜きにした何でも言い合える友人ですが、屈託のないアッサリした性格は今でも変わりません。
↑↓ 顔の長い男が「Genちゃん」 ここに掲載した写真は彼が40年以上保存していたものです。

1956年4月 熊本市立藤園中学校卒業

(その2) 落合中学のページへ戻る     (その4) 高校時代のページへ進む


吉村陸太郎のページへ戻ります