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その4. 熊本高等学校時代


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吉村陸太郎 rikutaro yoshimura
1956年4月 熊本県立熊本高等学校入学
1年生の頃  出身中学が熊本市内であったので、当時の校区制から考えて熊本市内の高校に進学することにした。経済的に見て私立高校は避けるべきであったので、月謝の安い県立高校となる。当時は県立の普通高校は市内に3校であった。済々黌高校・第一高校・熊本高校である。第一は女子ばかりの高校で問題外である。ちなみに、この年に第一高校に進学した男子生徒は4名でその後退学したという話を耳にしたが事実かどうか知らない。済々黌は質実剛健だとか防衛大学への進学率が日本一だとか聞いてどうも指導がきびしそうで行く気になれなかった。別に思想的にどうこうというより単にきついことがいやだっただけである。結局、熊本高校に受験し合格した。わが藤園中学3年5組から熊本高校を選んだものは10名足らず。希望者はほぼ入学できたのであろう。高校に入っても藤園中学出身者は特に多く顔なじみが沢山いた。
 高校に入ってみると、地方の中学を主席で卒業してきたものが成績は良かったような気がする。自分の印象では、約70%は勉強型・約10%がのんびり過ごす型、残りの20%がどちらともいえない型といったところか、当然、10%のグループに該当し、成績は後ろから数えたほうが早かったし、放課後、残って勉強をすることなどもなく、学校を出るのも早かった。
 1年の時の同クラスの友人にも色々の人間がいた。タイした男もいたし普通の男もいた。今年初めの同窓会では親しかった友人が亡くなった情報は一つや二つではなかった。当然のことながらみんな60歳を2〜3過ぎた老人であった。今も今後も一番世話になるのは医者になった友人だろう。
2年生の頃 n君のこと
2年3組となり、もっとも貴重な友人n君とめぐりあった。彼は京都の片田舎で登り窯を焚く陶芸家である。が、凡人から見れば遊び人としか思えない、ともかく一生定職に就いた事はないし、気が向いたときに窯を焚いているのである。オレには作品の評価はわからないが、一流の美術関係の大学に行っているし、彼の日常の性格や行動から見ても相当な陶芸家であると考えたい。かれは、自分と知り合って2〜3ヶ月後2年生の夏頃に高校を中退し人吉に行ってしまった。別に学校から退学を言い渡されたり成績が悪かったとかの理由はない。高校より陶芸の道を選択し人吉の陶芸家の弟子になっていったのである。たしか、師匠は村山一壺さんとおっしゃる方だったと記憶している。一度、人吉の彼の仕事場を訪問したことがあった。たしか、古仏頂町付近であった。このとき、彼の初期の作品であるカッパの焼き物を貰ったような気がする。国鉄の学生割引を使うため免田駅まで切符を購入し人吉駅で降りた。当時の国鉄の学生割引制度は100km以上が半額であり、100km以内は割り引き無し、つまり99kmの区間は100kmの約2倍を負担するような制度であった。
高校では、彼の数学嫌いは並大抵ではなかった、その反対に美術や音楽それに古文などは得意で短歌なども作っているようであったし、本もよく読んでいた。卒業以来何年ぶりかにあったとき。結局、人吉の弟子入りは続かず、京都の美術大に進んだと聞いた。試験の折の数学はどうしたかと尋ねたがなんとかなったと笑っていた、彼は数学は嫌いだったが苦手ではなかったのだと思った。なお、彼は難関を突破して美大に進んだが、卒業はしていないそうである。成績がどうかとか、出席がどうかとかは全く無関係、入学以来、講義も受けず、進級もせず、許される期間中、学校の施設を利用して陶芸の勉強をしたという。最近はめったに会うことも無いが、会えば何時間も飲み明かして話は尽きないであろう。
A君のこと
2年3組では、とても面白いA君も忘れられない。将棋と幾何の付き合いである。卒業後も、ボシタ祭りや同窓会で何度か会ったが昔と変わらない豪快な性格であった。しかし、1999年正月、新聞で彼の死を知った。もちろん、葬儀には参列させていただいた。この年は親しかった友人が相次いで亡くなっている。彼の死の直後、思い出をしたためたものがこれである。
古い友人がまた逝ってしまった
謹慎処分にあった話
2年3組のときは、変わった体験をした。生徒課から謹慎処分を受けたことである。1年の時の仲間には面白い連中が多かった、特に成績がオレと同程度すなわち下の方にうろうろしているもの達である。なかでも腕っ節が強くかなり威勢のいいY君に起因する事件が発生した。
2年生の夏休み前、職員室に呼ばれて色々尋ねられる。いわば教師と生徒の検察ごっこのようなものである。最初はなにかよくわからなかった。
まず、授業開始前の出席点呼が済むと、「吉村君と○○君は職員室へ」と呼び出される。授業には出ていないが出席扱いである。こんなことが2週間ほど続いたような気がする。この後、英語の学力が急激に低下したのを、自分の不勉強を棚に上げ、この問題のセイにした時期があった。その後、1週間の謹慎処分を言い渡されて自宅待機となり夏休みに入った。
考えるてみると以下のようないきさつのようである。40〜50年前のことで記憶もアヤフヤとなったし、すこしは違うかもしれない。
この問題が表面化する1ヶ月ほど前のこと、2〜3人の友人とある学生の下宿にいた。そこはY君と他校の女学生がカケオチを計画し作戦を練っているところであった。逃走経路はどうだとかズボンはどれがよいかとか、まあ、今思えば少年非行のサキガケのようなものである。この計画をどうゆう風に実行したかは感知しなかったが、警察もかかわるようなかなり大きな問題になったらしい。我が罪名はよくわからないが、その時のいきさつをわずかながらも知っているオレの口から何かを聞き出したかったかららしい。でも、少しは正義感はあるつもり、教師にしゃべってはなるものかとの意気込みもあった。結局、黙秘権を行使しつづけたのである。
べつに、前科が付くわけでもないが、こんな目に遭うものは少ないから、貴重な経験と受け止め、記憶に残っている。
なお、この事件の主役のY君はその後、熊本高校を退学し他の高校に転校したらしい。その3〜4年後(大学2年のころ市内電車の中で偶然出会い久しぶりに話をした、こちらはまだ子供のようなものであったが、彼はもう所帯を持っていると言っていた。その数年後、彼が亡くなったことを聞いた。30歳前後だったと思う。彼の臨終に立ち会ったのは高校の同窓生で医学部に進んだO君だったそうである。Y君もオレも劣等性、O君は優等生、でもこれは学業成績のこと、おたがい、同じ校舎ですごした気のよい仲間であった。
3年生の頃 (思い出しながら追加します)
1959年3月 高校卒業

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